3月銕仙会定期公演@宝生能楽堂

当日券買おうと並んでたら「学生会員はあちらで」と言われました。
・・・・・「一応、これでも社会人です。(懐具合は学生並ですけど)

能 『杜若 恋之舞』	
シテ(杜若ノ精)	清水 寛二
ワキ(旅僧)	殿田 謙吉
笛	一噌 庸二
小鼓	亀井 俊一
大鼓	柿原 弘和
太鼓	小寺 佐七
	
狂言 『地蔵舞』	
シテ(出家)	山本 則直
アド(宿主)	山本 則秀

能 『邯鄲』	
シテ(盧生)	柴田 稔
子方(舞童)	柴田 理沙
ワキ(勅使)	野口 敦弘
ワキツレ(大臣)	野口 能弘、野口 琢弘、吉田 裕一
    (輿舁)	井藤 鉄男、則久 英志
アイ痍(宿ノ女主)	山本 則孝
笛	藤田 次郎
小鼓	幸 正昭
大鼓	亀井 実
太鼓	桜井 均

(後見・地謡は省略しました)


いつもに輪をかけておバカな感想です。
『杜若 恋之舞』
僧が杜若の名所で見ほれていると、杜若の花の精が現れ、在原業平を褒め称える。
漫画『花よりも花の如く』(成田美名子)でも扱っていましたね。


「恋之舞」だなんて、きゃ〜、いや〜、はずかすぃ〜〜、な小書つき。
・・・のっけからくだらなくて、すみません。
(ちなみに、この小書がつくと、業平の女たらし度を謡う部分が省略され、舞の途中で水鏡の型が入るのだそうです。)


ワキ僧が杜若に見とれるのですが、脇正面に座っている私からは、正面席の客の頭に一本一本杜若が生えている想像してしまいました。(でもって、ワキがこちらを向くと、自分も花か?と思えたり)
そうして気付くとシテが幕の前に立っているんです。ふわり、と現れた感じ。
紗のかかったような、ソフトフォーカスな雰囲気で、とっても美人さんの面。(中村光江作の宝増とパンフレットにありました。)
物着の後のシテの台詞「見て見て、これが噂の唐衣と初冠よ♪・・・て聞こえました。
なんだか明るい精という印象。
彼女自身には、業平に対して怨みも、恋心もないのでしょうね、きっと。
紫のイメージに反して水色の長絹で、冠から朱色のだらだらっとした紐が垂れ下がっていました。(何て言うのかな?垂れた花弁みたいで好きなのですが。マニアック?)


関係ないけど、物着の時や舞の前に、鬘帯や衣を調えて、うん、て頷く後見(=野村四郎)が、お姫様を大事大事にしている爺やみたいで、なんだか微笑ましかった。


後半は、舞がた〜〜〜っぷり。
橋掛かりで、袖を絡げてじぃ〜〜〜〜〜〜っと水鏡をするの、素敵だったなぁ。
彼女と、空気と、水と、境目が曖昧に滲んでいくようでした。
花にまで褒め称えられる業平って、よっぽどいい男だったんだなぁ・・・。


『地蔵舞』
前半は屁理屈合戦、後半は酒宴で舞たっぷりの、見ごたえのある曲。
最初、『杜若』と同じ囃子方が出てきて、アシライがありました。
そのまま、舞も囃子入なのかと思ったら、さっさと帰ってしまいました。残念。
宿主が「出あえ、出あえ」と家の者を起こすのが、狂言ではあまり見ないような強い調子で、ちょっとびっくり。


『邯鄲』
盧生という中国の青年が人生に悩み、高僧に教えを請おうと旅に出た途中の邯鄲の里で、「邯鄲の枕」で眠ると、勅使が現れ、盧生に帝位が譲られたと告げる。盧生は栄耀栄華を極め、50年の歳月が経った。千年の長寿の酒を捧げられ、喜びに舞う。しかし、目が覚めると、それは粟の飯が炊けるまでの時間でしかなかった。盧生は悟りを得、故郷へ帰る。


型や舞など見所も多く、物語そのものも、とても面白い曲でした。
哲学的な内容でもあるし。
色々考えさせられます。
結局、彼(盧生)は何を悟ったのか?「望み叶へて帰りけり」の望みとは?
・・・というのは、置いといて。(笑)


子方が、可愛い!!(*^^*)
堂々としているし、お稽古で注意されていたところもちゃんと決まっているし、感心しきり・・・なんて、心境はすっかり親戚のオバサン・・・いや、お姉さん!(笑)


シテの装束、紫のラインが効いていて、カッコ良かったです。
面は邯鄲男(近江作)、ナーバスな美青年という印象。ちょっと皮肉っぽい感じ。
力が入りすぎなのか、少し震えているように見えました。
面をつけているというのに、ハッキリ聞こえる声。
謡い方の癖なんかも、聞き慣れているためか、とても分かりやすい。(ゴマ点が目に浮ぶ・・・?)


ワキがシテを起こすのに、次期王様に向かって、その起こし方は乱暴なんじゃ?とツッコミを入れたくなりました。
このシーンて、最後の宿の女主がシテを起こす場面との相似なんですね。
こういう劇的な構成も面白い。


夢の中では、あっという間に50年。
舞童が舞台いっぱい使って舞っているのに対して、シテの引き立て大宮の中での楽は窮屈ですね。(舞そのものという意味ではないです。ゆったり、見事でした。)
歓喜の舞ということになってますが、そんな狭い空間でしか舞えないというのは、盧生の心の葛藤のようにも思えるのです。
帝位にあることが「望み」ではない、または、そんな自分を疑っているような(これは夢だと知っているような)、そんな印象。
だから、容易に降りられなかったんじゃないのかな、と。
(あ、この「空下り」、片足を上げたままの姿でしばらく固まっているのが、バレエのポーズみたいでカッコ良かったです。)
降りると、夢が醒める、または、今の状況(帝位)を全面肯定することになる。
2つは正反対のように見えるけれど、盧生の真の望みではない、という点では一緒。
で、結局どうしよう、どうしよう、と悩んでいる。
子方、ワキ、ワキツレがそそくさと切戸へ消えて行って、舞台に一人ぼっちになってしまった盧生、ちょっと寂しく見えました。
その、キーンとした感じが、悟りの瞬間かも。
悟りといっても、これ(帝位)は違う、と分かっただけかもしれないけど。


最後の飛寝(?)、ちょっとだけ引っ掛かってたのが惜しい。


『邯鄲』の教訓。
女主を演じる狂言方は、素顔に鬘なので、人選には注意すべし。(今回はOKでした)
あ、違う?


終了後、お稽古仲間の一人と勝手に反省会(笑)しました。