第11回海の会@セルリアンタワー能楽堂

渋谷のセルリアンタワー地下2階にある能楽堂です。
結婚式・パーティーの参加者と思われる着飾った人達を横目に(笑)、いつものカッコで。


番組は次の通り。

狂言『茶壷』(和泉流
シテ 野村 万蔵
アド 吉住 講
小アド 野村 扇丞

能『三輪』(観世流
シテ 勝海 登
ワキ 森 常好
間  小笠原 匡
大鼓 亀井 広忠
小鼓 大倉 源次郎
太鼓 観世 元伯
笛  一噌 幸弘
地謡・後見は省略)


『茶壷』
茶の葉を買出しに来て、酒によって帰る途中、道端で居眠りをした田舎者(アド)。そこへ通りかかった、すっぱ(シテ)は、荷を奪おうとするけれども、田舎者がしっかり背負っているので、うまくいかず、片方の肩掛けを自分にかけて、一緒に横になる。起きた田舎者とすっぱはお互いに自分のものだと主張し、通りかかった目代(小アド)に審判を頼む。それぞれ、謡い、舞いながら、中身の由来などを言いあって、結果は・・・。


口あんぐりなオチです。
あんまりだ〜、ひで〜〜〜、と。(笑)
連れ舞いが、楽しい!
すっぱは、田舎者の真似をして舞うのだけれども、それがまた巧妙で。
こっちの方が本物なんじゃ?と思えてしまうくらい、上手い。
単に役者の技量かもしれないけど・・・いや、そういう演出で見せられるのも、技量のうちでしょう。(多分)


『三輪』
玄賓僧都(ワキ)の元へ毎日、仏への供物を持ってくる里の女(前シテ)が、ある日衣を所望し、与える。僧が女に住まいを聞くと、女は古歌を詠んで消える。僧が三輪山の神前まで来ると、杉の枝に女に与えた衣がかかっている。不審に思っていると、明神となった女(後シテ)が現れ、三輪の由来と、天岩戸の神遊び様子を語る。


奈良にある、三輪神社の縁起についてですね。
とても分かりやすいエピソードを盛り込みつつも、オチのないストーリー。(笑)
疑問がいくつかあり、更に自分なりに答えを探ってみました。(かなり胡散臭いけど。)


・里の女=三輪明神が、僧に助けを求めるっていうのは不思議。神仏習合の時代背景とか関係あるのかな。つまり「神<仏」とか?チラシにあった解説に「神には三熱の苦しみがあり、衆生に苦しみがある限り神も娑婆に留まって苦を受ける」とあるけれど。人の苦しみは神の苦しみ、というのは、キリスト的なイメージでしょうか。


・「三輪」の名の由来として、女の元に毎晩通う夫の帰る所を知ろうと、衣の裾に糸を縫い付けて、手繰っていき、三輪残ったので、とあり、その夫が、実は蛇!ということなのですが。別の昔話とごっちゃになってるのかも知れませんが、その蛇(おそらく白蛇)が、神様そのもののはず。それを自分が女の立場で語るって一体?もしや、我も彼も己なりということか?迷い多き衆生(女)も、蛇(神)も、それを語る明神も同一なんて、多重構造(エンヤの曲みたい。笑)になっているのかな。ちなみに、この部分の詞章、妙になまめかしい・・・ような気がするのは私だけ?(笑)


・オチは一体?天の岩戸伝説ネタで謡い舞い、伊勢と三輪の神は一体だ、という主張はわかるのですが・・・。「面白い」の語源とかも語ってくれちゃったりして、とても教養に溢れているのですが。果たして迷いは消えたのか?衆生は救われたのか?(いや、そもそも後シテは神なのだけど。)


能の終わり方って、うやむやなもの(余韻とは別)が多いような。
ぼーっと見惚れていても、で、成仏できたの?なんて、ふと我に返って思ったりします。
こんな語り逃げ(笑)物語としては破綻してるよなぁ。(苦笑)
けど、それらはワキの坊さんの夢だったりもするのだから、それはそれで解釈は坊さんに託すとか?(一般人の観客はそのおこぼれで、いい思いをするだけ。)
それとも夢なんだから、オチはない、という隠喩(笑)。


ああ、なんだか今回はストーリーについての戯言ばかりになってしまった。
舞台については、中入りが、舞台上の作り物の中での生着替え(笑)なのがツボでした。(見えませんよ!もちろん)
あんな狭いところで・・・。
囃子方が好みのメンバーで、意識はもっぱらそちらへ。
シテは初見です。
謡が聞き取りやすく、丁寧に舞っているという印象でした。
里女なんて、中年のはずなのに、可愛らしかったなぁ。


午後、そのままお素人会があったので、ラッキー☆とばかりに、能と舞囃子を中心に見て帰りました。
(余談ですが。客席数が少ないせいか、この能楽堂での公演は他に比べてチケット代が割高な気がします。ま、こじんまりとしている分、舞台が近くて、見やすいのですけどね。)