危機感

先日、新作能紅天女』が上演された。
漫画『ガラスの仮面』の劇中劇を能にしたとのことで、かなり話題を集めていたようだ。


ちなみに、私は見なかった。
新作能ということで、シテ方囃子方は売れっ子のお決まりメンバー、それにはそそられるのだが、作品にあまり興味が持てなかったので。


そんな立場での、思うところを書いてみます。
不快に思われましたら、ごめんなさい、と先に謝っておきます。


まず、興味が持てなかった理由としては、
・漫画の世界が確立されすぎているように思ったから
熱狂的なファンがいることは知っている。その原作ファンの夢である『紅天女』に対する期待度と、能に対する興味のバランスが、見所の雰囲気に如実に現れそうで、不安だった。
私自身は原作を読んでいないので(あらすじは知っているが)、そのひがみかもしれないが。


・誰に向けての作品なのか不明
原作ファンと、能のファンとでは、観方が異なると思う。原作ファンを取り込んで能の観客層拡大を狙ったのか、原作ファンの『紅天女』欲を満足させるために能が利用されたのか(言葉は悪いが)、純粋に独立した能作品でありうるのか。


本歌取り
実際に公演を見に行った方の感想などを読ませていただいて、思ったのだが、漫画の登場人物達が演じているという設定で、上演されたとか。その入れ子構造は面白いけれども、それよりも漫画とは別作品として作った方がよかったのでは?(見ていないから想像)
もっとも、漫画の台詞とリンクさせ本歌取りの効果を狙ったのは、いいと思う。能の楽しみ方の要素として。


月曜日の10時からのNHKニュースで紹介していたが(5分位かな?)、その際に「能の粋を集めて」というような事を言っていたのが気になった。
本当にそうかな、て。
これが今の日本の能の代表ですか・・・?
(いや、だから、見てないので正当な評価は下せませんが。)


新作&話題性ゆえに、考えさせられてしまう。
古典であれば、考えることもない。
・・・その思考停止が、実は問題なのかもしれず、こうした問題提起をすることこそ新作の存在価値ともいえる・・・??


ついでに書いちゃうが、海外公演ではサービスいいなぁ、と思う。カーテンコールなんて、日本ではホール公演でもしてくれないのに。してほしい、と言っているのではなく、海外ではそれ(カーテンコール)が常識だからそれに合わせて、といったような工夫を、なぜ日本での特に古典の公演では考えないのだろう。頑なにスタイルを保つ、それこそが伝統であるし、魅力だが、その事に甘んじて「考えない」ことに、危機感を感じる。(「考えて」、あえて貫いているようには思えない。)
今の日本人の能に対する興味・知識は外国人以下、と思ったほうがいい。


ただの能ファンであり、観能歴も短い、素人のたわごと、です。
好きなものだけに、僭越ながらも心配になってしまったりするのです。