ほんとうのさいわい

ご存知、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、繰り返される言葉です。


ジョバンニとカムパネルラ。
いい子たちだ〜。
二人とも、いつも誰かの幸いを願っている。
自分の中の、つまらない嫉妬や軽蔑の気持ちに気付くと、すぐに己を恥じて、相手のために祈る。
お互いがお互いをとても大事にしていて、その思いやりを、みんなに広げようとしている。


初めて呼んだ時、博愛精神のない私には、ピンとこなかった話ですが、歳を経るごとに、そのフレーズがじんわり浮き上がってきます。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば僕のからだなんか百ぺん灼(や)いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙(なみだ)がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜新潮文庫青空文庫より)


ジョバンニの、カムパネルラとずっと一緒にいたいという思いと、「みんなの幸」のために捨身をも厭わない高潔さ。
私心と無私という矛盾が、この純粋な少年の中に同居している。
「ほんとうのさいわい」「わからない」というのは、その矛盾にぼんやり気付いているからかもしれない。


「カムパネルラ、僕たち一緒にいこうねえ。」というジョバンニの呼びかけに応える声はなく。


急に足元が抜けて、暗闇に吸い込まれるような、絶望的な別れを暗示しているのが、切ない。