国盗人@世田谷パブリックシアター

W.シェイクスピアの「リチャード三世」を翻案した河合祥一郎作、野村萬斎演出の舞台です。
出演は白石加代子野村萬斎他。
ちなみに私、恥ずかしながら『リチャード三世』を読んでません・・・。(恥)


迷っているうちにチケット予約をしそびれ、見るのを諦めていたのですが、ぽっと都合がついたので、当日券で行ってしまいました。
カメラが入っていました。
単なる偶然なのですけど、私の見に行く公演日って、収録が多いような。
(それはそれで、後でビデオで見る時に、面白いような、つまらないような複雑な気持ちです)


以下、ネタバレかも?これから御覧になる方は気を付けて読んでください。


狂言や能の要素がちらほら。
動きが様式的で、ぴたっ、ぴたっとメリハリがあるのは、演出の出自ゆえだろう。
能面も、単なる小道具以上の意味があって、見ていて安心できる。(あまり意味なくインパクト目的で使われると、不快に思ってしまうことがある)
場面の切り替えや対比、シルエットでの表現なんかは、『間違いの狂言』や『敦』でも多用されていたもの。上手いなぁ、と思う。
前半と後半とで、テンションがちょっと違う。前半は全体象を描かなければならないせいか説明的で詰め込んだ印象。打って変わって、後半の見事なハジケっぷり。
観客も市民としていつの間にか劇中に巻き込まれていて、高揚した気分になり、楽しかった。
余分なシーンとか、小道具(例えば盃、扇にすればいいのに)をもっと削れるような気がするので、再演が楽しみ。


さて、内容をつらつら考えてみる。
萬斎サマが演じているからか、醜男のはずの「悪三郎」に妙な色気が(笑)。ま、そうでないと女性を口説き落とせないけども。
結局、悪三郎は、誰のことも愛さなかったし、誰からも愛されていなかったんだよなぁ。
権力への執着も(多分)ない。だから、「馬をよこせば、国をやる」(だっけ?)なんて言っちゃえるんだ。
自分の才気に酔って、ゲームのように女を手に入れ、国を手に入れ、周囲を増悪した。
彼が母を求める(?)シーンは、やはり萬斎が演じたオイディプスハムレットとダブる。(そういう、ダブルミーニングもある作品なんだろう)
最も憎むべきは、こんな自分を生んだ母、こんな自分に育てた母。出発点で間違えなければ、ここまで悪三郎は醜くはならなかった?そこさえ、と願う悪三郎の気持ちが切ない。
クライマックス、「絶望して死ね」なんて、他人に呪われるのも嫌だけど、自分で呪ってしまうのも、キツイ。
彼の中の、自虐的で破滅的な最後の望み?(これまた矛盾を孕んでる)
ストーリー的には、ここが彼の良心の目覚めなのだろうが、ちょっと唐突にも思えた。(そりゃ、死者に囲まれて責められたら、後悔の念も沸くけど)
夢がきっかけというよりも、悪三郎を操っていた影と分離したから、かな。
影が消えたから悪も消えたのか、悪が消えたから影が消えたのか?
いや、「影=悪」だから、その因果関係を追及するのは無意味で、どうしてそんな事態(「影=悪」が消えてしまうこと)になってしまったのか、というと、死霊に囲まれたから??
う〜ん、う〜ん、う〜ん。
悪に徹しろよ、悪三郎!(笑)


「人殺しの道具を手にしたんだ、覚悟しろ」(ちょっと違う?)どんな奇麗事や建前を述べたって、「人殺しの道具」なんだよね。手にしたという事実だけで、自分は殺人者と同じ。ある意味潔い、悪三郎っぽい台詞だと思う。


このまま終わったら後味悪〜〜〜〜〜と思っていたけれど、それなりに爽やかに終幕。夢オチとも言う。(笑)


気になったのは、陰惨で不気味なシーンでも笑いが起こったり、拍手が起こったり。
役者のトーンが誘導するのかも知れないけれど、場面にそぐわない時もあって、狂言師が演じているということの不自由さ(見る側の先入観)を感じた。
それとも、私の感性がおかしいのかも?(私のツボる所は、周りが無反応なんだよねぇ・・・)


さて、これから『リチャード三世』読みます。