読み物としての謡曲

謡曲(能の台本)を現代語訳したものを、読んでみた。
タイトルがちょっと恥ずかしい。(笑)


愛の謡曲集―出会い、それは夢のように〈上〉

愛の謡曲集―出会い、それは夢のように〈上〉


う〜〜〜ん。
ハッキリ言って、面白くない。(爆)


能のストーリーって、実はしょーもないものが多い。
特に脇能。
矛盾だらけだし。
前後支離滅裂で、ツッコミどころ満載。
完結した物語と言うには、かなり不十分だと思う。


それが。
謡になり、舞がありすると、素晴らしい世界を描けるのだから、人間の想像力って、立体的だよね。


能を見るようになる前は、物語のエッセンスを得たくて、こういった訳本があると手軽でいいなと思っていたけれど、今になってみると、「能」は、謡本の(古典の)テキストで読むことに意味があるようにも思う。
ただ、現代語で“わかりやすく”読めたことで、気付いたこともあった。
『敦盛』って、敦盛(シテ)を手にかけた蓮生法師(ワキ)の目の前で、自分の討たれたシーンを再現するんだよね・・・。
舞台では、シテに意識が集中し、ワキはフェードアウト状態になってしまうはず。
シテを見てるのは、見所の自分達、でも、それ以上にワキが見ている。
後悔の念から出家したワキ当人にとって、自分の罪を見せ付けられるようで、とても辛い事、だろうな。
敦盛も残酷なことをするものだ。
文章だから、シテとワキとを対等に思いやることができた。